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高校生のグランプリ
宮田麻里乃

2009ミス日本グランプリ

INTERVIEW02

INTERVIEW

宮田麻里乃(みやたまりの)

1991年11月9日生まれ。2009ミス日本グランプリ。

成城学園高校在学時にミス日本を受賞し、大学受験と両立しながら活動。

東京オリンピック誘致活動に携わり、BSフジ教育バラエティ番組の司会を務めた。

その後、早稲田大学政治経済学部に進学し、卒業後は日本銀行に就職。

2021年8月現在はコンサルティング会社アクセンチュアで活躍している。

東京五輪誘致活動に従事!ミス日本の醍醐味

現在、東京オリンピックが開催されています(インタビュー時)。ミス日本として誘致活動に携わったときのことを教えてください。

私は2016年の五輪を東京に誘致する活動に参加させていただきました。そのときは叶いませんでしたが、次の機会で誘致に成功したときは、当時ご一緒させていただいた方々の努力も叶ったと感じ、嬉しかったです。受賞した年度に日本で起こっている大きな出来事に携わることができるのは、ミス日本ならではの醍醐味だと思います。

ミス日本現役時ではないのですが、2011年に東京で世界体操が開催されたときにプレゼンターをさせていただいたことも印象深いです。当時、日本は団体総合で銀メダルを獲得したのですが、私はちょうど銀メダルのプレゼンターの一人でした。表彰式の際、プレゼンターの方が小声で内村航平選手に「悔しいよね」とおっしゃったのを耳にし、思わず「うんうん」と頷いてしまいました。その頷きが受賞した選手の方々と重なり、少し一体感みたいなものを感じました(笑)。もともと、2009年のときに五輪招致に携わった際に塚原直也選手と活動をご一緒する機会があり、その頃から体操に興味を持っていたのですが、世界体操を経験してからより身近に感じるようになり、今回のオリンピックでも特に熱意をもって応援していました。

次はパラリンピックが開催されます。注目している競技はありますか?

はい。2008年の北京パラリンピックで活躍したアスリートの方々が帰国され、国内でお祝いに開催された特別賞贈呈式にて、プレゼンターを務めさせていただきました。そのとき、車いすテニスの国枝慎吾選手とお話しする機会があり、シングルス優勝時の喜びを伺いました。今回の東京大会でのご活躍も楽しみにしています。

オタクからミス日本へ!女子高生の挑戦

オリンピックの話で盛り上がってしまいましたが、麻里乃さんの人となりについても伺いたいです。ミス日本に挑戦する前は、どのような生活を送っていましたか?

当時は高校生で、クラスの中心というよりは、教室のすみで仲の良い友人と好きな話を掘り下げるタイプでした。当時からけっこうオタクで、漫画やアニメなどの作品を幅広く楽しむことが趣味です。ミス日本出場前はちょうど「マクロスF」にはまっていた頃で、大会当日の朝も、テンションをあげるために部屋で「マクロスF」の歌をひとりで熱唱していました。実は当時、「マクロスF」を好きだという話が伝わったのか、主題歌を担当されていた坂本真綾さんからライブに招待していただき、DVDをいただきました。このDVDは今でも私の宝物です。

どういったきっかけでミス日本に出場されたのですか?

知らないうちに母が応募してくれていました。私は中学時代、芸能活動をしていたのですが、向いていないと思って事務所をやめ、一高校生として日々を楽しんでいました。その時に母が鈴木恵理さん(2008ミス日本グランプリ)の活躍をメディアを通して目にし、私にも同じように精力的に過ごしてほしいと感じたようです。私もファイナリストになって恵理さんの真面目さや誠実さを知り、彼女みたいになりたいと勉強会(*1)に励みました。小さな頃から、父に「目の前のことを全力でやりなさい」と言われて育ったので、全力で学びました。その気持ちから、座右の銘として「至誠天に通ず」(真心を込めて努力すればいつか結果はついてくるという意味の孟子の言葉)を掲げています。

*1 勉強会
ファイナリストが受講できる数カ月間の特別プログラム。
ミス日本が重視する3つの美(内面の美、外見の美、行動の美)を伸ばす。
能や茶道、華道といった伝統文化を経験するものや、日本画や浮世絵、現代アートについて習うもの、ウォーキングやスピーチの技術を身につけるものまで多岐にわたり、それぞれの分野のトップランナーが講師を担う。

テレビレギュラーでも学校休まず!ミス日本の活動と学業を両立

いざミス日本を受賞して、それまでの高校生活から変化はありましたか?

はい。受賞してすぐに情報番組やラジオに呼んでいただいたり、朝の教育番組のMCをさせていただくことになったりと、生活が一変しました。高校でも、他のクラスの生徒が私を見にくることが数日続き驚きましたが、しばらくしたら普段通りの学生生活に戻りました。とはいえ、ミス日本としての活動(*2)と学業との両立はなかなか忙しかったのですが、ミス日本協会の協力が素晴らしく、無事に乗り越えられました。週末か、平日の場合は学校の前や後にお仕事をできるように調整してくださり、ミス日本の影響で学校を休むことは1日もなかったです。普通の高校生活を送りながらミス日本として活動できたことはかけがえのない思い出で、今でもミス日本協会に感謝しています。私はミス日本の任期途中から受験生にもなりましたが、活動も勉強も目の前のことをひたすらがむしゃらにやったら、なんとかなりました。

*2 ミス日本の活動
受賞してから1年、国を代表して活動する。
G7伊勢志摩サミットやCOPをはじめとする国際会議、スポーツの世界大会などのプレゼンターを務めることも多い。
パリ・ユネスコでのファッションショー、ニューヨークでのチャリティーアートイベント、スイスでのイベント、日中青年交流など海外での出演も。
野球好きはプロ野球始球式、ランニング好きはマラソン大会スターター、外国語が得意だと国際的イベントと、受賞者の個性・特技を活かす出演もある。

経済の仕組みを知りたい!進学のきっかけはミス日本の勉強会

大学受験を巡っては色々な考えがあります。勉強に専念すべきだと言う人もいれば、色々な刺激を受けながら努力をした方がいいと言う人もいます。麻里乃さんはその時期にミス日本に挑戦したことについて、どう感じていますか?

あのときで良かったと心から思っています。というのも、私が早稲田大学政治経済学部を志望するようになったのは、ミス日本の勉強会がきっかけでした。経済の仕組みについて、実業家のビル・トッテンさんからお話を伺う機会があり、「自分が社会の役に立ちたい・貢献したいと思うのならば、世の中の中心である経済の仕組みを学ぶことが大切だ」とう言葉に感銘を受けました。それから経済について勉強しようと思い、ミス日本ファイナリストとしてプロフィールを書くときに、夢は経済ジャーナリストとしました。任期後には経済学科に進学し、学びたいことや経験したいことが増えましたが、経済への興味はずっと強く、日本銀行に就職するに至りました。なので、ミス日本への挑戦は私の人生に大きな影響を与えたと感じています。

ミス日本の勉強会で他に印象に残っているものはありますか?

様々な分野の知識人の方々からお話を伺うことは、学生にはなかなかない機会で、すべて貴重だと感じていました。特に印象に残っているのは、能の勉強会(能楽金春流・櫻間家第21代当主である櫻間右陣先生から伝統芸能や和服など日本の文化について学ぶ授業)かもしれません。着物すら着たことがなかったので、着物の所作を習ったのは印象的でした。また、勉強会ではありませんが、受賞当時に審査委員長をされていたメディアプロデューサーの酒井政利先生と時々お話をさせていただいていました。「あなたはふとしたら下を向いてしまうから、胸を張りなさい。素晴らしい素質があるのだから自信をもっていいんだよ」と助言していただいたことは今でも忘れていません。なので、先日訃報をお聞きしたときは本当に悲しくて、ショックが大きかったです。心よりお悔やみ申し上げます。

場数を踏んだからこそ!緊張せずに臨んだミス日本本選

様々な成長の機会を経て、いざミス日本本選を迎えるわけですが、麻里乃さんはどういう気持ちで臨んでいましたか?

今から思えば、本選では自然体でしたね。緊張も多少はしていたのですが、平静に舞台を迎えられました。前夜祭(*3)の方が緊張して、そこで初めて「ミス日本に挑戦している」という実感がわきました。一晩寝て起きたら、心地よい緊迫感のある状態になっていました。同期のファイナリストの中には当日、「頭が真っ白になって倒れそうだった」という方もいましたが、私は落ち着いていられました。

*3 前夜祭
ミス日本本選の前夜に開催される立食パーティー形式の審査会。
出席者はミス日本出身者やお世話になった勉強会講師、翌日の審査員などがいるほか、前夜祭の様子を審査する覆面審査員も存在する。
多くの審査員にとって、ファイナリストの人柄を間近で知る機会となるため、社交力や立ち居振る舞いに注目が集まる。
コロナ禍においては開催が中止されている。

本番に強そうですが、緊張しないコツはありますか?

たしかに本番には強いかもしれません(笑)。いつも緊張のピークが前日にくるタイプです。中学時代に芸能活動の一環で生放送を経験したので、与えられた環境でなんとかする練習はできていたと思います。芸能活動やミス日本の舞台を通して度胸がついたかもしれません。その前の私は、引っ込み思案でクラスメイトともうまく話せなかったので、色々な場数を踏めて良かったと思っています。

嫉妬は悪いことではない!ミス日本での質疑応答

本選では、どのような質疑応答をしましたか?

たとえば、「『嫉妬』についてどう思うか」という質問があり、私は回答順の最初に指定されました。嫉妬って、単純に考えればあまり良いイメージを持たないと思うのですが、当時の私はポジティブにとらえて、「嫉妬をすること自体は悪いことではない。自分に足りていない部分があると認めていないと生まれない心だから。問題はその嫉妬をどう使うか。自分を高めることに使うのか、相手を引きずり下ろすといったようなマイナスの方に使うのか、その使い方によって意味合いが変わる。だから嫉妬自体についてではなく、そのあとの心情や行動を考えるべきだ」という回答をしました。それもあってか、そのあともポジティブな回答が続きました。トップバッターとして前向きな回答をしたことが良い評価につながったのかもしれません。

最初の回答者は考える時間がまったくないにも関わらず、高校生とは思えない思慮深さ!哲学的なことを考えることが好きなタイプそうですね(笑)。他の質問は覚えていますか?

そうですね、もともとひとりで哲学的なことなどを考えるのが好きなタイプでした(笑)。他に、着物審査の時に「自分を植物に例えてください」という質問もありました。そのとき、着物の色が赤かったので、「山の中に1本咲いている楓、紅葉のようになりたい。どんなに枯れている山であっても、その木が一本あれば華やかになる。そういう人間になりたい」という話を、私の経験の話を交えながらしました。

自分の言葉で!試行錯誤した海外でのスピーチ

受賞すると、ミス日本としての活動がスタートします。印象に残っているものを教えてください。

日本食のプロモーションをするため、10日間、香港へ行ったときの経験は今でも鮮明に覚えています。私にとって初めての海外でのお仕事で、香港の方に日本食を親しんでもらうために日本を代表してアピールするという、責任重大な役目でした。各所をめぐって挨拶をおこなうのですが、初日は用意していただいた原稿を日本語で読んだところ、特にこれといった反応はありませんでした。そこで、当時の在香港日本国総領事館大使だった佐藤重和大使にご相談したら、「自分の言葉で伝えてみるといいんじゃないかな」とご提案いただいて。どのようにしたら香港の方々に私の言葉が届くのか考えて、冒頭に「私の名前は宮田麻里乃です。日本食の魅力を伝えに来ました」と中国語で挨拶してから、原稿を使わずに自分の言葉で話すことにしました。発音も今から思えばめちゃくちゃだったのですが、インターネットで中国語での挨拶の言葉を調べて、自分なりに練習して当日に臨みました。

どのような反響がありましたか?

これが好評をいただいて、現地のニュースに取り上げていただき、10日間のうちに予定されていなかったイベントが複数件舞い込みました。例えば香港ディズニーランドでのPRの案件が入ったり、行政府の方とお会いすることになったり。佐藤大使も、当初は最初の2日間のみ同行してくださる予定だったのですが、反響の大きさに10日間ご同行していただけることになり、日本企業の方々とも一団となって、一緒に日本食のプロモーションに励みました。

人生の決断の礎に!ミス日本に挑戦したことは宝物

香港での経験を通して感じたことを教えてください。

一番は周囲の方への感謝です。大使や領事館の方々、在香港の日本企業の方々など、様々な方々に助けられての活動でした。また、ミス日本協会には多大なご配慮をいただき、実は香港には母も同行していました(笑)。当時は、自分ではメイクもままならない状態でしたし、振袖の着付けは現地の方にしていただくにしても、何が必要かもよく分かっていなかったので、ミス日本協会の方や母にとても支えていただきました。また、中国語で挨拶をした経験などから、中国語にとても興味が湧いて、大学進学後は第二外国語に中国語を選びました。台湾に遊びに行ったときに、正確には台湾華語と中国語は異なりますが、露店でがんばって中国語を使ってみたら通じたときは、とても嬉しかったです。人生の様々な決断をする前にミス日本で色々なことを経験できたのは、私の人生の宝物です。高校生のときって、今から考えるとそんなに自我が芽生えていた段階ではなかったのですが、そういうときにミス日本の活動をしたことで視野が広がった気がしています。イベントへ出演したときも、その裏でどういう人たちがどういう意図で動いていて、どういう組織が出演料を払っているのか意識することで、色々な人の立場や気持ち、経済の回り方について考えるようになりました。例えば、かすみがうらマラソン兼国際ブラインドマラソン大会の盲導犬体験ブースでPRをしたとき以来、点字ブロックを使用している方がいたら困っていないか注意したり、白杖を使用されている方を見かけたら声をかけるようになりました。

周りのミス日本から受けた刺激もありましたか?

はい。最年長の同期(*4)とは8歳差で、他の同期も皆さん年上です。年上でも奮闘されているのをみて、私もたぶん人生ずっと勉強なんだなと感じていました。ただ、当時の私は同期たちのことを優しくて頼りになる大人のお姉さんだと思って憧れていましたが、今思うと全員25歳以下。当時の彼女たちの年齢になってみて、こういうところが大変だったのかなと思い返すこともしばしばありました。あの頃すでに、あれほど自立していて、優しく穏やかで賢かった同期のみんなを、改めてとても尊敬します。

*4 ミス日本の同期
ミス日本には複数の賞があり、同じ年度の受賞者4-5人が同期となる。
現在の賞は、「グランプリ」のほか、和装文化の魅力を体現する「ミス着物」、健康と運動の代弁者「ミススポーツ」、水の広報官として日本の上下水道技術の高さを伝える「水の天使」、森林大国日本に根付いた木の文化を発信する「みどりの女神」、海洋立国日本に欠かすことのできない海の安全や海の恵みをPRする活動をする「海の日」、他の模範となる美を評価された「準ミス日本」など。

中央銀行からコンサルへ!社会人としてのキャリア

その後、実際に就職活動をして日本銀行へ入行されました。どのようなお仕事をされたのですか?

最初の4年は総務人事系の部署でダイバーシティ推進に取り組みました。その後、金融市場のモニタリングをし、資料を作っていました。

その情報を、総裁はじめ政策委員が金融政策を決める際に参考にすることもあるかと思います。責任重大ですね。

そうですね。ことの大きさ次第では作成に携わった資料が総裁の目に届くこともありました。行員の方々もみんなとても優しく、素敵な組織だったのですが、一方でまったく違う世界を見てみたいと思って転職を決めました。

たしかにコンサルはまったく別の世界ですね。

アクセンチュアへは人事組織コンサルタントとして入社しているので、実は近い面もあります。人に直接影響することであり、私にとっても身近なことなので、振り返ってみるとそれが楽しかったなと。また、今後はデジタルテクノロジーについてさらに研鑽を積んでいきたいなと思っています。アクセンチュアはデジタルやITを活用してお客様の価値をさらに引き出すことに突出している会社なので、せっかく入社したからには存分に学びたいです。入社して間もないのですが、手を挙げればどんどんと機会を与えてくれる社風で、恵まれた環境だと感じています。また、アクセンチュアは2021年の「女性が活躍する会社」のランキングでNo.1に選出されましたが、性別はもちろんのこと、平等と多様性を尊重する文化が根付いていることを実感しています。

今後の目標を教えてください。

具体的な目標はあまり定まっていないのですが、人生を通じて、社会のために役に立てるような人間になりたいと思っています。学生時代から積もるように大きくなってきた思いではありますが、ミス日本での経験を経て確固たるものになったように感じています。それまでは自分の周りの世界しか知らなかったのですが、ミス日本として大きなセレモニーに出たり国の代表として活動したりして、色々な方々の思いに触れる機会が多かったからかもしれません。

これからミス日本に出場することを検討している人に伝えたいことはありますか?

結果はどうあれ、受ける過程で色々な出会いや経験があり、そういったものは絶対どこかで活きてきます。なので「一瞬一瞬を大切に、一瞬一瞬を楽しんで、それがいずれ将来の自分に繋がるということを信じて、目の前のことを頑張って」と伝えます。

インタビュアーから一言
2011ミス日本グランプリ・ミス日本運営委員会委員 谷中麻里衣(やなかまりえ)
「今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。私は麻里乃さんの2年後にミス日本に出場し、伝説の美貌とスピーチ力に憧れていました。同世代で活躍する麻里乃さんのお話しを伺え、良い刺激を受けました。この記事は私たちの会話の一部抜粋ですが、皆様にも麻里乃さんの魅力が伝わっていれば嬉しいです!前向きに誠実に努力を重ねる麻里乃さんの姿勢は、多くのミス日本と通ずるものです。今後も出身者インタビューは続くので、ぜひ読みにいらしてください。そして、もしミス日本への応募を検討してこの記事を読まれていたら、ぜひ!宝物のような思い出や学びがたくさんできます。」

(2021年8月)


2009ミス日本グランプリ